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TAMAE KOUGO
              光後 玉江

イメージ  天保元年(1830年) 3月11日に、光後(秦)荊淑の長女として錦織で生まれる。幼名、浪子。母「いよ」の氏である秦氏は、あの法然上人の母の氏と同じで、つながりが類推される。弘化元年(1844年)15才の時に、津山藩医野上玄雄のもとで医術を学び始める。当時既に錦織で医業学修所を開いていた父の姿を幼い頃より見て、医学の道を志したのかもしれない。
 しかしその父も、娘が25才の時に亡くなる。その2年後、野上玄雄での学問を修め、翌年1月、晴れて大阪に出て開業する。名も、開業の地大阪市北区玉江町に因み、玉江と改名する。しかし開業して半年後の7月、やっと軌道に乗り始めた時に、故郷より突然、母いよの病の知らせを受ける。急いで帰郷するが、看病もむなしく母を失う。そしてその悲しみを乗り越えて、同年興禅寺の住職戒般和尚に弟子入りを申し出て剃髪し、境内の仏間を使って医業を行い始める。
以後47年間、郷里の人々の医療に捧げ、明治38年(1905年) 1月31日寂す。享年77才。光後玉江自身が書き残したものとしては、明治13年から明治35年までの間に、彼女が診た患者のカルテ 「処剤録」18冊、明治11年から明治32年までの 「患者届書控」 1冊の、計19冊がある。保存状態も良く、昭和53年5月22日に中央町の重要文化財に指定されている。ちなみに同じ蘭学医で、父荊淑と交遊のあった箕作院阮甫は、彼女が生まれた年に津山の新開町で開業し (29才)、彼女が13才の時に江戸で 「産科簡明」 を出版している。  イメージ
資料保管場所
興禅寺(中央町錦織172 電話0868-66-0562
※貞観3年(861年)に創建された興禅寺は、室町時代には大般若教を刊行するなど、当時より有力な寺であった。この寺の「桜渓の間」と呼ばれる仏間から、近年、江戸時代の医学書や処剤録が多数発見された。それは江戸末期から明治にかけてこの地で開業した、女性蘭万医、光後玉江の残したものだった。
 特に箕作院甫の「産科簡明」は全国に3冊しか現存しないという貴重なものである。