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本田 増次郎
MASUJIROU HONDA         

私達の町のすばらしいい英文学者・教育者・ジャーナリストとして活躍した本田増次郎の足跡を紹介いたします。

中央町を愛し、若者に夢を与え続けた「本田増次郎」                               
主な経歴
  慶應元年、岡山県美作国久米郡打穴村(現在の久米郡中央町打穴里(うたのさと))は国宗谷の農家に杢蔵・やゑの三男として生まれる。   
 最初は医者を志し、福渡在住の吉岡寛斎先生の門に入る。寛斎は福渡における初代玄跡の三代目で、近郷に知られた名医であった。
 明治15年9月9日、18歳で青雲の志を抱き上京、嘉納治五郎先生の門下となる。
 英米文学の日本への紹介、教育、慈善、英字新聞・雑誌の執筆、外交でも活躍。 
 明治24年から第
5高等学校(熊本)・大阪高等英学校・高等師範学校・東京外国語学校の教授などを歴任。

 明治36年、米国女流作家シュウエルBlack Beautyの欧文への翻訳出版、明治40年 旅順南山の攻防を描いた桜井忠温の『肉弾』の英訳出版等を手掛ける。
 大正8年4月に全権、西園寺公望の秘書としてパリ講和会議に出席し、その年10月に帰国。
  そして、作家 山本有三 岳父。
  大正141925)年11月25日岡山への切符を手に、打穴の郷里を夢に昇天。 享年59才。
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若き時代の「本田増次郎」
●嘉納治五郎先生との出会い
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少年に形を指導する嘉納治五郎先生
嘉納治五郎 (かのう じごろう) 
        万廷元年〜昭和13年(1860〜1938)
 摂津(兵庫県)御影町の酒造家嘉納次郎作の三男として生まれる。幼名伸之助。
 明治6(1873)年東京帝国大学の前身、開成学校に入学。勉強のかたわら福田八之助について天神真楊流、飯久保恒年について起倒流の柔術を学ぶ。
 明治15(1882)年卒業し、学習院英語教師となる一方、下谷稲荷町の永昌寺の書院を借り『講道館』を創設、同時に私塾『嘉納塾』も始める。
 明治21(1888)年九段富士見町に道場を開き、柔術諸流派の技術を統合し、体育的に再編成した流儀を完成、『講道舘柔道』の名のりをあげた。
 文部省から外国視察に派遣された後、明治24(1891)年第五高等中学校長となり、文部省参事官兼文部大臣官房図書課長、第一高等中学校長を経て明治29(1896)年東京高等師範学校長に就任。 
 明治42(1909)年アジアで最初のlOC(国際オリンピック委員会)委員に就任、明治44(1911)年には大日本体育協会を創立、翌年には三島(東大)・金栗(東京高師)の両選手を選抜して自から団長となり、ストックホルムでのオリンピックに初参加した。
 昭和13(1938)年カイロで開催のlOC総会に出席しての帰途、氷川丸船中で肺炎のため78歳で急逝した。
嘉納塾
 増次郎が治五郎の門下生となったのは、明治15年9月のこと。塾生の人数も最初はわずかであり、教える側も治五郎の柔道指導の助手をしていた優秀な若干の門弟たちであった。それ故か、家庭的雰囲気に包まれた塾で、塾生を集めて座談的に話を聞かせたり、あるいは個人的に適宜、注意を与えたりというように、塾の名称についても、嘉納塾という名前が何時とは無しに自然に付いたのである。嘉納塾の教えは【文武を包含した大きな人間の道】つまりこれが柔道であるというものだった。治五郎は「道場においてどれほど技術の練習をしても、胆力(度胸)や勇気その他、そういう練習に伴うて自然に養わるる何らかの他は、望み得らるるものではない。信義とか、廉恥(潔くして、恥じを知ること)というようなことは、別に教えられなければ、技術の練習のみだけでは不可能である。人には武のみに備せず、同時に文にも備せぬ両方面に関心を有する人であってほしい。」と説いた。
 嘉納塾は明治15年から大正8年までの38年間続けられたが増次郎は明治18年まで塾生として、そしてそれ以降明治24年までの6年間を英語の指導者として過ごした。
 その後、明治31年8月に治五郎は造士会を設立し、同時に「国士」を発行。増次郎も多く多く投稿し、人間形成を訴え続けた。
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富士見町時代の嘉納塾生と若き師範
治五郎:中央やや右の白袴
増次郎:後列左から3人目 

作家山本有三と娘「はな」
n一人娘『はな』誕生
n 増次郎は井岡姓の一女性と恋に落ち、娘『はな』が生まれる。理由は明らかではないが、入籍をしなかったため『はな』は私生児として生まれることになった。結核を患っていたこの生みの母は『はな』が5才の時死亡、『はな』は祖母に育てられるが、その祖母も10才の時死亡、井岡側の親族を転々として育てられる。
n 父増次郎が海外で暮らしていたこともあり、精神的には非常に孤独な生活を送ることになった。
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n『はな』山本有三と結婚
n 跡見女学校を卒業していた『はな』は、容姿端篤かつ理知的で皆に愛される性格であったが、21才になっても縁談はなかった。跡見女学校の学監跡見李子(ももこ)から山本有三との縁談が持ち上がった時、相手が10才も年上で、しかも再婚と言うことには『はな』も抵航とためらいを感じたが、結婚を決意した。
n 結婚式には、大正81919)年38日、田端の天然自笑軒(てんねんじしょうけん)で行われた。

 時事新報は二人の結婚の予定を次のように報じた。
n戯曲家及び舞台監督として盛名ある文学土山本有三氏(31)は今回本田増次郎氏の長女井岡(養家先の姓)花子嬢(23)と婚約成り、来る3月上旬結婚の式を挙げる事となった。山本氏は帝大独逸文科の出身で、現在は早大文科に教鞍を探って居る。花子嬢は跡見女学校出身の才媛である】
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古稀の有三と還暦のはな
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跡見女学校時代のはな
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外国にも頻繁に出かけ、外交活動にも貢献
明治40年ニューヨークにて、右端が増次郎
nベルサイユ講和会議
n ベルサイユ講和会議出席の西園寺公望全権の秘書として赴くため、大正81919)年115日、丹波丸に乗船し神戸港を出帆、マルセイユのホテル・ルーブルにて休養後、陸路にてパリヘ向かう。(増次郎は3ヶ月遅れの4月27日横浜を出向し、行動をともにする。)
n 講和会議は各国の利害が対立、ようやく628日午後3時、ベルサイユ宮殿鏡の間で締結に至った。この間、増次郎は秘書兼通訳として、日本の国益を守るため全力を尽くした。
n 大正81919)年115日の出帆の様子を東京朝日新聞は次のように報じた。
n 【行ける平和使 西侯以下の神戸出発 煙勇まし晴れの丹波丸 埠頭に向かふ自動車行列】
偉大なる教師「本田増次郎」
n大阪高等英学校
n 増次郎が第5高等学校に次いで奉職した大阪高等英学校は、現在の桃山学院大学に発展している。
n 起源をたどれば、その最初は英国聖公会の伝道師であるワレンが、明治171884)年に大阪の川口外人居留地(現在の西区川口町)内の三一教会の1室で始めたわずか11名の男子校である。この学校とも教室ともつかぬ英語と聖書の教室は発展し、明治23年、現在の天王寺区筆ケ先に新校舎が建設され、大阪高等英学校となった。
n その後、大阪高等英学校は明治281895)年には、その界隈が桃の名所であったことにちなんで、桃山学院と名称を改め、さらに規模拡大のため、大正元(1912)年、現在の阿倍野区昭和町に移転した。昭和201945)年3の空襲で校舎は焼け落ちたが、昭和241949)年には新校舎が落成、新制の中学・高校として現在に至っている。なお、桃山学院大学はキリスト教新教日本伝来100年を期して、この桃山学院が昭和町に開学したものだ。
n 増次郎は明治231890)年に日本聖公会の洗礼を受けており、大阪高等英学校の校長を引き受けたのも、日本聖公会の要請があったためである。
 増次郎が奉職した頃の大阪高等英学校があった筆ヶ崎は、大阪環状線の鶴橋駅から西へ徒歩数分の処にあり、現在は、大阪赤十字病院がそのほとんどを占めている。古びた病棟が連錦と続き、独特の都市景観を造りだしている。
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大阪桃山学園生との写真 : 前列右から4番目が増次郎
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 手は加えられているものの、生家は当時をそのまま残されています。
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父 杢蔵と増次郎の眠る打穴里の墓石
増次郎辞世の句
 「西東さすらふ吾をかへりみし なつかしの友よすこやかにませ。
 めば玉の闇やぶりつつ吾魂は 光もとめて天かけりゆく。
 青丹よし奈良にしあればなかなかに たのしかりけり見はやみぬとも。」
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増次郎が生家に送った柱時計は今でも時を刻みつづけています。

年表
慶応 2(1866)1月15日  美作国久米北條郡上打穴里村(岡山県久米郡中央町打穴里)に農
              家の三男として生まれる。

明治14(1881)春      医師吉岡寛斎の元に入門。
明治15(1882)9月     上京。松岡塾に入門。
明治16(1883)10月1日  嘉納治五郎家塾に入門。
明治23(1890)9月28日  洗礼を受ける。キリスト教に改宗。
明治24(1891)9月     第五高等学校(熊本大学)教授となる。宣教師ハンナ・リデルと
              出会う。
明治25(1892)夏      御殿場のハンセン病救護所を訪問。
明治26(1893)4月     大阪高等英学校(桃山学院大学)校長となる。
明治28(1895)11月12日 熊本にハンセン病患者の施設(回春病院)が完成。
明治29(1896)4月     高等師範学校(筑波大学)教授となる。
               この頃、中国(当時は清)留学生に英語を教える。
明治30(1897)9月29日  長女はな誕生。母親は井岡ふで。
明治32(1899)1月     立教高等女学校(立教女学院)校長を兼務。(〜明治35)
明治33(1900)       東京外国語学校(東京外国語大学)教授を兼務。
明治35(1902)4月     女子英学塾(津田塾大学)教授を兼務。(〜明治38)
明治36(1903)8月1日   井岡ふで結核により死去。
       9月     アンナ・シュウェルの小説「Black Beauty」を「黒馬物語」とし
              て翻訳出版。
明治37(1904)2月     早稲田大学教授を兼務。(〜明治38)
明治38(1905)6月     従5位に叙せられる。
       7月     文部省より留学生として渡米。
       8月〜    ポーツマス講和会議(9月5日調印)このころより英字新聞に
              寄稿を始める。
明治40(1907)       外務省嘱託となる。
              雑誌「The Oriental Review」主宰となる。
明治45(1912)       コネティカット州トリニティー大学より名誉文学博士の学位を授
              与される。
              体調を崩し、帰国までの1年間コネティカット州で療養。
大正 2(1913)3月     帰国。ジャパンタイムス入社。
大正 5(1916)       雑誌社「The Herald of Asia」入社。
大正 8(1919)3月8日   長女はな、作家山本有三と結婚。
          4月27日  フランスへ向けて横浜港より出発。パリ講和会議(6月28日
              調印)を取材。
      10月27日  帰国。
大正10(1921)11月    京都・奈良を経て朝鮮・中国へ旅行。
大正11(1922)2月     宮内省嘱託となる。
              来日した英国皇太子の通訳に同行。
大正12年(1923)8月    軽井沢夏期大学で講義。
大正13年(1924)〜     大磯・別府等各地で療養。
大正14(1925)11月25日 午前3時30分小石川の内野倉医院で死去。享年59歳。
       11月30日 芝の聖アンデレ教会にて葬儀。
       12月1日  故郷打穴里に埋葬。

HP作成秘話:最近本田増次郎が中央町出身者で英文学者であったことを知り、有志で現存する資料や文献をあさり読みを始めた。調べるうちに明治の時代背景や嘉納治五郎、小泉八雲、西園寺と恐ろしいぐらい著名な方々との関わりが発見されました。ベルサイユ条約にまで大きく貢献していたり、英文学者であるが教育者としての実績に驚いたしだいです。明治11年、めったに笑わない英国皇大使を流暢な英語で笑わせるだけの、日本一の英語力を身につけ世界を駆け巡った増次郎を誇りと改めて認識いたします。
 ページを少しづつ充実させますのでご期待ください。
資料:「英語青年」1910〜1925/中村浩路「今よみがえる英語と人生の達人:本田増次郎@」岡山商大論叢第36巻第1号(2000)/長谷川勝正「知られざる本田増次郎」ttp://www.geocities.co.jp/SweetHome/5237/ /勝浦吉雄「語学の逸材・本田増次郎」名著サプリメント通巻第3号/ジュリア・ボイド書・吉川明著「ハンナ・リデルーハンセン病救済に捧げた一生」日本経済新聞社/長谷川順三「嘉納治五郎の教育と思想」明治書院/「幕末明治海外渡航者総覧」第2巻・柏書房/「久米郡誌」久米郡教育委員会/「岡山県歴史人物辞典」山陽新聞社/「西園寺公望自伝」第3巻・立命館大学西園寺公望編集委員会/永野賢著「山本有三正伝」上巻/(財)日本武道館 月刊「柔道」/(財)講道館 「国士」/「諸事拾集記憶書」杢蔵日記
HP作成に当たり増次郎の曾孫にあたる穣様ご夫婦の説明を始め多くの方々の文献を参考にさせていただきました。
  ありがとうございます。
イメージHPスタッフに大切な資料をもとに説明くださる穣様の奥様
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はるばる増次郎の生家に集まった親族の皆さんと、町の増次郎研究STAFFの記念写真!!
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増次郎や