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シーボルトの門人「石坂桑亀」SOUKI ISHIZAKA
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八幡温泉を見下ろす高台に眠る
石坂桑亀の墓
 

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シーボルトの門人 石坂桑亀(いしざかそうき)  1788年生まれ

 石坂桑亀の先祖は代々作州久米北条郡境村(現在の久米郡中央町境)に住居し、農業をしていた。桑亀は天明8年(1788)父多作の一人息子として生まれ、通称は篤太と称していた。(晩年桑亀と改めた。)13歳の時、志をたて医学を学ぶため、津山の医師某の門にはいった。のち京都の古医方家吉益南涯(よしますなんがい)につき南涯の没する1813年まで学ぶ、ついで文化13年(1816年)2月19日南涯の門下であった紀州平山村華岡青洲の許に入門した。青州の下では文政2年まで学び、岡山に帰郷し福渡で開業した。

イメージ 桑亀の父多作の墓碑は桑亀生誕の地に祭られている。
天保土歳庚子九月十二日入定 石坂多作行年八十才
 ある日、宇田川榛斎の「医範提綱」を読み感ずるところあり、笈を負うて長崎に遊学、たまたま来日していたシーボルト(鳴滝塾)について数年間蘭学を学んだ。シーボルトが来日した文政6年(1823年)に入門したとしても、すでに桑亀は36歳で、晩学と言わねばならない。このときシーボルトの門下には岡山から落合町旦土の石井宗謙と備藩の児玉順蔵の3人であり、1番最初に長崎に学んだのは児玉順蔵である。桑亀は文政12年(1829年)シーボルトの帰国と同時に帰郷、福渡で再び開業し、盛況であり病人は遠近から集まり盛業を極めた。長崎から帰郷する時桑亀はシーボルトのオランダ語の医学書を全部毛筆で書き写して持ち帰ったが火災により焼失してしまった。 足守藩主木下公はその名声を聞き、侍医として招いた。当時足守藩は疲幣しており、借財が山積みしていた。桑亀には元来、経済的才能が有り、藩札を発行したり、諸制度の改革を行い藩財政の立て直しをして、藩主の寵遇を受けた。しかし、旧弊の藩吏とあわず天保13年ごろついに藩を辞し,たまたま倉敷の富豪大橋家に招かれて倉敷に移った。 そして、開業のかたわら、二男典礼とともに医師の弟子に蘭方医学の普及につとめた。(桑亀は二男三女をもうける)一方、長男典裕も医を継ぎ建部町に住んでいたが,嘉永3年、30歳余りで死んだ。また桑亀もその翌年の嘉永4年(1851年)6月9日、64歳で死去、建部町建部上願成寺の石坂家墓地に葬られた。 桑亀の三女かよ子に門人中の俊才、石坂堅壮をめあわせ養嗣とした。この堅壮こそ、のちの岡山藩医学館教授となり、明治10年、日本で初めて「肝臓ジストマ」を発見したその人である。 ところで、箕作(みつくり)阮甫が若い頃、桑亀の名を慕い入門を請うたが、「君のような俊才を指導するにはすでに老齢である。君の才力をもって、天下の良師に従って学ぶなら,君の学問は深くなり測り知れないものにあるであろう。貴藩の宇田川斎こそ、君の師である。」と諭された。その時、阮甫はまだ蘭方医学を信用していなかったが,桑亀の言で洋方の学ぶべきことを悟り、ついに宇田川斎の門に入り、西洋医学を学び、後年、洋学者としてとして蕃書取調所教授となった。 世の人々は桑亀が人を知り、才能ある人を育てたことを称賛したのである。 
                                     
                           
 <<岡山の医学引用:昭和46年日本文教出版他>>
桑亀の物ではないが、文政6年当時の医学書の写し「五臓六腑囚糸圖天地人五行新書」
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桑亀の子孫石坂徹泰氏により多作の墓碑と共に位牌や家計図等が丁寧に保管されています。


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資料メモ
・1788年生まれ
・通称「篤太」と言い、晩年桑亀と改める
・名は「良民字惠甫」また「廣交斉」とも言われている?
・境の家の屋号は「藪谷」
・篤太が桑亀と改称したのは倉敷に移ってからと思われる
・桑亀が医者を志したのは桑亀が生まれる前年に死んだ北谷琳昌という立派な医者が身内に居た事を幼少から聞かされていたと思われる。
・京都の「吉益南涯」に二十歳頃・紀伊平山村の「華岡青州」(文化13年2月19日門に入る青州57歳の時)に、内科・外科を学ぶ。
・文政2年まで青州に学び福渡で開業