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きしだぎんこう記念館タイトル画像

 

 
館内画像

 美咲町旧旭地区が生んだ大偉人、幕末から明治にかけて激動の時代を走りぬけた岸田吟香に関する資料などを展示した記念館です。吟香は日本最初の新聞記者であり、水溶性目薬の製造販売、盲唖学校の創設、江戸横浜間の定期航路の開設など数々の偉業を成し遂げました。また、新聞の発行までをわかりやすく展示した新聞コーナーや細心の映像機器を備えた視聴覚室もあります。
 岸田吟香の紹介

岸田吟香プロフィールタイトル画像

天保4年(1833)〜明治38年(1905)
岡山県久米郡垪和村大字中垪和谷生まれ。
「わが国新聞界の草分け」「和英辞典の編集」「日本で最初の従軍記者」「盲唖学校の創設」「目薬の調剤販売」など数多くの先駆的役割を果たしました。
岸田吟香写真画像



【資料の展示】

 吟香の様々な著書、資料の展示に加え、新聞の発行までをわかりやすく展示した新聞コーナーもあります。


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館内写真



【ゆかりの地】

岸田吟香の生家の写真
岸田吟香の生家

生誕跡地写真 記念碑(旭町栃原)写真
生誕跡地 記念碑(美咲町旧旭地区栃原)



【年 譜】

年齢 出来事
1833
(天保4)
0歳 久米郡垪和村中垪和谷大瀬毘地区で誕生。
名は達之治、元服の際、太郎と改め、後、銀次郎と改称。
1845
(弘化2)
12歳 久米郡久米町大庄家安藤善一(簡斉)の学僕となり漢学を学ぶ。
1848
(嘉永元)
15歳 津山に出て永田幸平、上原存軒に漢学を、矢吹正則に剣道を学ぶ。
1850
(嘉永3)
17歳 江戸に出て津山藩儒・昌谷精渓に入門し、また林図書頭の塾に学ぶ。
図書頭の代講として秋田藩邸および水戸藩邸にも出講。
1855
(安政2)
22歳 病のため帰郷。病癒えて大阪に出て、藤沢東畝に学ぶ。
名を太郎と改める。
1856
(安政3)
23歳 再度江戸に出て藤森恭助に入門。
「勅てい降下」事件に関し、藤森は幕府より追われて下總に走り、銀次郎もその飛沫を受け上州に逃れ、寺子屋を開く
1860
(萬延元)
28歳 江戸に帰り、上野寛永寺のほとりに潜む
暫時、三河国挙母藩の侍読となったが、幕府の圧力が加わったため、再び上州に逃れ、また江戸に帰る。
落魄して、米塩の資に窮し、妓楼の箱屋、湯屋の三助等となり、「銀公」と愛称せられた。
1864
(元治元)
31歳 眼を病み、アメリカの医師で言語学者の宣教師ヘップバーンが横浜で経営する医館(療養所)にて治療を受ける。
それがきっかけで、ヘップバーンが編集中の「和英語林集成」(和英・英和辞書)の編集を助け、かたわら英語の研修を進める
1865
(元治2)
32歳 浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)「海外新聞」を創刊。民間で発行された最初の邦字新聞である。
吟香、本間清雄とともにその発行を助ける。
ヘップバーンの「和英語林集成」脱稿。
1866
(慶應2)
33歳 上海に赴き、在華アメリカ宣教師の経営する美華書館にて「和英語林集成」の印刷に着手。
1867
(慶應3)
34歳 「和英語林集成」の印刷を終わり、吟香、ヘップバーンと共に帰国。
江戸松坂屋彌兵衛および横浜鹿島屋亀吉の合資にて汽船を買い入れ、米人ヴァン・リード経営により、江戸横浜間の定期航海を開始。
ヘップバーンより伝授された目薬を調剤し、販売を始める
1868
(明治元)
35歳 上海に赴き、2隻の船を目薬の販売に充て中国進出の一歩を踏み出す。
上海より帰国し、江戸横浜間の定期航海業の組織を改め、江戸は松坂屋彌兵衛、横浜は吟香、おのおのその責任者になり経営を続ける
ヴァン・リードと共に「横浜新報・もしほ草」を創刊。
吟香単独で「金川日誌」を発行。
1869
(明治2)
36歳 小林勝子と結婚。
1870
(明治3)
37歳 1万両で稲川丸を譲り受け、単独で京浜間の定期運海事業を運営。
横浜に玩具骨董品店を開業。
1871
(明治4)
38歳 氷室商会を設立し、北海道から氷を移入、販売。
「横浜全図」を刊行。
1872
(明治5)
39歳 改訂増補の上、「和英語林集成」の第二版を発行。
1873
(明治6)
40歳 「東京日々新聞」に入社。
「和訳英語聨珠」を刊行。
1874
(明治7)
41歳 台湾派遣軍に従い、観戦記を「東京日々」紙上に連載。
7月末、帰郷。
1875
(明治8)
42歳 英人ホールド等と訓盲院(盲唖学校)の設立を計画。
銀座2丁目1番地に目薬の調合所を設け、本格的に薬品、書籍、石鹸等の販売を始める。
1876
(明治9)
43歳 明治天皇の東北語巡幸に従い、「東北御巡幸記」を「東京日々」紙上に連載。
1877
(明治10)
44歳 東京上野に開催の第1回内国歓業博覧会に際し、「博覧会観覧記」を「東京日々」紙上に連載。
1878
(明治11)
45歳 上海を訪れ、英租界地に楽善堂分店を設け、本格的に中国大陸に進出。まもなく帰国。
再度、明治天皇の東北語巡幸に従い、「御巡幸記」を「東京日々」紙上に連載。
1879
(明治12)
46歳 明治天皇の信越、京都、中京、東海道方面の巡幸に従い、三たび「御巡幸記」を「東京日々」紙上に連載。
1880
(明治13)
47歳 計画していた訓盲院(盲唖学校)を前島密等と築地に設立し、開校。
「薬事新報」、「薬剤月報」等を創刊。
薬業者に推されて東京売薬業組合頭取を始め、諸種の役員に就任し、業界の向上発展に努力する。
上海を訪れ、中国各地に楽善堂分店を設ける。
1881
(明治14)
48歳 「清国地誌」(3冊)「公法会通」(5冊)を刊行。
1884
(明治17)
51歳 「富国策」(3冊)を刊行。
1886
(明治19)
53歳 「和英語林集成」の第三版が丸善より刊行。
1887
(明治20)
54歳 「中外方興全図」を刊行。
1894
(明治27)
62歳 日清戦争の勃発に当たり、彼の訓練指導した青年の多くは通訳その他として特務機関に勤務し、吟香自らも渡支して中国各地を跋渉した。
1896
(明治29)
63歳 勲六等瑞宝章および金五百円下賜。
日清貿易研究所、東亞同文会、同仁会等の創設に関与して、日華貿易、日華親善の伸張に努め、かつ大東汽船会社、湖南汽船会社等の創立にも与かり、中国における汽船航路の発展に努力した。
1900
(明治33)
67歳 東亞同文会は上海に東亞同文書院の経営を開始したのを始め、大正10年(1921)には天津に中日書院、漢口に江漢中学校を創設。
1905
(明治38)
72歳 永眠


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